忠義の裏事情、いつの世も問題となるもの【「忠臣蔵」の決算書】(11冊目)
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「忠臣蔵」の決算書
山本 博文(著)
株式会社新潮社 2012/11/20 第一刷発行
本書を特にオススメしたい人
- 武士社会、歴史に興味がある方
- 忠義や武士道といった価値観に興味がある方
- 江戸時代の貨幣とその価値、物価に関心がある方
- 『忠臣蔵』に興味がある方
目次
- はじめに(本書の紹介)
- 読んで思った本書のポイント
1, 赤穂事件から討ち入りまで
2, 資金源と使い道
3, 武士の心と金 - まとめ
はじめに(本書の紹介)
赤穂事件。
数々のドラマや映画、舞台に『忠臣蔵』として採り上げられた江戸時代の有名な事件です。
具体的な内容は知らなくとも、この『忠臣蔵』という言葉を聞いたことはないでしょうか?
端的に言えば『一連の赤穂事件の中で主君の仇を取った武士とその討ち入り』にフォーカスしているのが『忠臣蔵』でしょう。
実際ドラマなどでは亡き主君への忠義を前面に押し出した、 大石内蔵助メインの群像劇になっている事が多い様な気がします。
忠臣蔵は多少脚色されていたとしても、史実の事件です。
事件発生から仇を討つまで約1年9か月もの歳月をかけていますが、その間も赤穂浪士達は情報を集め、計画を練り、雌伏の時を過ごしています。
しかし、その間を忠義だけで人は生きていくことはできません。
生活を営むにしろ、人を動かすにしろ、討ち入りの準備をするにしろ『お金』が必要です。
最終的に討ち入りは成功しているのですが、この一大プロジェクトを長期に渡り練り、暴発させず完遂させたのは一人一人の心意気や忠義だけではなく経済面でも『やり繰り』を上手く行ったからでしょう。
本書では忠義がフォーカスされがちな『忠臣蔵』をお金、つまり経済的な側面から見ています。
浪人生活はどれほど苦しいものだったのか、 討ち入りの準備を含めたお金をどこから工面したのか等々。
赤穂事件を武士の倫理観に隠れた『経済面』という日の当たりにくい点から見ることで、忠義だけではない武士の新たな一面見せてくれる、そんな1冊です。
読んで思った本書のポイント
1, 赤穂事件から討ち入りまで
忠臣蔵の討ち入りイメージが強すぎると、赤穂事件は『自分たちの殿様が腹を切ったのですぐさま討ち入りだー!』という単純な流れに見えるかもしれません。
ですが、この事件の経緯を紐解くと約1年9か月もの歳月が掛かった理由が分かります。
赤穂事件は1701年に播州赤穂(兵庫県赤穂市)藩主 浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が、江戸城 松の廊下にて高家筆頭 吉良上野介(きらこうづけのすけ)に斬りかかった事が発端です。
内匠頭がなぜこのような凶行に及んだか、その原因は明確には分かっていません。
ですが、この事件の日は天皇・上皇の使者が江戸から帰京する際に行う『御暇の挨拶』を行う日であり、且つ江戸城内での抜刀・刀傷沙汰はご法度でした。
そんな事情から内匠頭は江戸城からすぐさま護送され、将軍 綱吉から即日切腹が申し付けられました。
事件から5日後には播州赤穂に事件の発生、内匠頭切腹、藩取り潰しの連絡が入ったそうです。
藩士たちは赤穂城引き渡しを行うのか、それとも抗戦するのかで揉めたようですが、家老 大石内蔵助らが中心となり引き渡しが決まりました。
この時、藩士たちは『喧嘩両成敗』が成されているかを重視しました。
喧嘩両成敗は江戸時代にも慣習として残っており、喧嘩をしたものは双方とも処罰を下すというものです。
内匠頭が凶行に及んだのはよっぽどのことが有り、且つ腹を切っているので上野介にも何らかの処罰が下るはずだ、でなければ『武士の一分』が立たないと考えたのですね。
しかし、上野介は一切抵抗しなかった為、江戸幕府は『喧嘩』と見なさず、上野介には『構いなし=処罰無し』とされました。
ここで上野介にも何らかの処罰なりが下っていれば討ち入り=忠臣蔵は起こり得なかったかもしれません。
よって後は歴史が示す通り、赤穂藩の武士たちは討ち入りを決行することになるのですが、約1年9か月の期間全てを討ち入りの準備に当てたわけではありません。
藩は取り潰しとなりましたが、切腹した浅野内匠頭の弟である浅野大学が浅野家の家督を継ぎ、御家再興が出来る可能性があったのです。
よって大石内蔵助らは討ち入りよりもまずは御家再興を目指して動いた為、その可能性が潰えるまでは討ち入りを決行しなかったのです。
さて、長々と赤穂事件の経緯を述べましたが、本書では主にこの『約1年9か月の間に使われた資金の流れ』を追っています。
というのも 大石内蔵助は藩取り潰しから討ち入りまでの使用経費を纏めた『預置候金銀請払帳(あずかりおきそうろうきんぎんうけはらいちょう)』という史料を遺しているのです。
資金の流れが見えたからといって赤穂事件や忠臣蔵の本質が変わるかと言われれば、やはりそこは『忠義』や『武士の一分』といった武士特有の倫理観が影響していることに変わりはありません。
ですが、使用資金の配分・流れを見れば『何が重要視されていたのか』が分かるだけではなく、如何に苦労して元藩士たちの暴発を抑えていた、また何故討ち入りを決行したのかも見えてきます。
今も昔も資金の流れを追うことで出来事の裏事情を追える事は変わらない、ということですね。
2, 資金源と使い道
藩取り潰しから討ち入りまでの資金はどこから出てきたのか?
資金援助がバレれば御家取り潰し or 重罪になるのは目に見えていますから、どこかの大名や大店が秘密裏に資金援助した訳ではありません。
この資金源は『赤穂藩が取り潰された時に残ったお金』が元になっているそうです。
但しあくまで『残ったお金』というのがミソです。
現代社会でも会社が倒産した時は残った債権を清算し、従業員に出来る限りの退職金を支払いますが、赤穂藩取り潰しの際も同様のことが行われたのです。
江戸時代の諸藩は『藩札』というものを使用していたそうです。
これはその藩内で通用する紙幣と考えればあながち間違いではないでしょう。
赤穂藩も藩札を使用していましたが、藩が無くなるとなれば只の紙切れとなるので藩札所有者(債権者)はこぞって現物(銀)に替えようとしたそうです。
(赤穂藩の藩札は同価値の銀と交換できる藩札との事です)
また上級藩士(家老等)から下級藩士(足軽等)まで、金額は違いますが藩士達の退職金も支払う必要がありました。
尚、退職金の平均は現代貨幣価値に換算すると約700~800万円程度になるようです。
年貢米や赤穂藩が所有していた塩田、武具等を清算した後、上記を支払った残りが『討ち入りまでの資金源』となったのですが、その金額は『約8,300万円』程度だったそうです。
尚、基本的に追加で資金が増える事はほぼありませんので、8,300万円で1年9か月の間様々な行動を起こした結果、最終的に討ち入りを決行した事になります。
さて、この8,300万円の内、直接的な討ち入りの準備費用(武具の調達)に当てられたのはどのくらいなのか?
何とその比率は2%にも満たないそうなのです。
これは『討ち入りの準備は後回し』というよりも、それ以外の優先すべき事項があった、という事を示しています。
具体的な使い道や最終的な使用割合などはネタバレにもつながりますので割愛しますが、本書では『誰が、何のために、どれだけ使ったか』を明確に示しています。
これは大石内蔵助が几帳面だったから、という可能性も高いと思いますが、『残った8,300万円は仕えていた藩のお金』と捉え、自分一人ではなく赤穂藩士全員のモノとして公平に管理したからかもしれません。
3, 武士の心と金
藩取り潰しの後、はじめは多くの藩士が御家再興を目指して団結したそうです。
実際、山科会議(1702年2月、藩取り潰しから11か月)の時点では同志は確認できるだけで120名は居たようです。
しかし、円山会議(1702年7月、藩取り潰しから1年4か月)で討ち入りが決定した時やその後の『 神文返し』、更には討ち入り直前でも脱盟者が続出し、討ち入り時は『47名』となっていました。
それまで精力的に動いていた者も脱盟している事から、やむにやまれぬ事情があったのかもしれませんし、単にいざ決行となった際に不安が勝ったのかもしれません。
最終的に残った47名ですが、この中には 下級藩士だった者も多くいました。
彼らは藩取り潰しの際の退職金も多くなかった為、非常に苦しい生活を送ったことが分かっています。
中級藩士であっても1年も過ぎれば困窮し、退職金だけでは生活できない者が出るほどだったので彼らは尚更だったのでしょう。
その為、裏店暮らしを行う者や他藩へ仕える親類への借金を申し入れを行った者、中には商売を始めた者もいたようです。
ですが、それでも最後まで脱盟せずに討ち入りを行った、という事は生活苦に嘆くよりも『主君の仇を討つ』『武士の誇りを持つ』といった意志が勝っていたのでしょう。
と、最初は私も素直に考えたのですが、ちょっと立ち止まって意地悪く考えると『生活が苦しくとも討ち入りまで耐え、敵討ちを成し遂げた』のかが分からなくなりました。
つまり『忠義が先にあり、それを心の支えとして生活苦に耐えた』のではなく、『先行きが不安で打開も望み薄、このまま無為に死ぬよりは忠義を通した』可能性もあるのでは?と思ったわけです。
結果は同じですが『心が先』か『金が先』か、という事です。
というのも 上級藩士ならば他家との婚姻関係や養子縁組など、親類が他藩の上役にいる可能性も高いと思いますので、他藩への仕官が出来るかもしれません。
また階級が高くなくとも何らかの一芸(ex, 剣術や槍術の達人)を持っているならば、その一芸を活かして仕官できる可能性もあります。
ですが、 下級藩士となると広く深いコネがあるかは微妙でしょうし、特に秀でた一芸を持っていたならば赤穂藩時代に取り立てられて階級が上がっている可能性が高いと思われます。
更に、当時は江戸幕府が開かれて約100年が経過していますので、戦国時代の様に諸大名が人員確保に奔走している訳でもありません。
その為、下級藩士たちは『再仕官の望みも薄く、先行きが不安ならば最期は主君の仇を討って武士として死ぬ』事を選んだ可能性も否定できないのではないでしょうか。
まとめ
本書は赤穂浪士達の経済面、中でも『藩取り潰し~討ち入り』間であった資金の流れを追っていくのがメインとなっています。
忠義や武士道といった精神面が採り上げられる事が多い武士社会を、経済面から考える。
現代では馴染みにくい価値観を今でも通用する価値観から見ることで、裏にあった事情や行動を起こさなければならなかった理由をより知ることが出来るのです。
言い換えるならば良く刑事ドラマで出てくる『動機の裏付け捜査』といった感じでしょうか。
今も昔も人が生きる上で切り離すことはできない『お金』。
精神面だけではなく経済面からも武士を見ることで、今では想像でしか存在しない彼らを『立体的』に見せてくれる、本書はそんな1冊です。
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