雑学・用語解説11(「忠臣蔵」の決算書)

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目次

  1. 大石内蔵助
    1-2. 討ち入り後の処分
  2. 武士階級(家老~足軽)
  3. 神文返し
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1. 大石内蔵助

おおいし くらのすけ。但し内蔵助は通称であり、本名(諱)は『大石 良雄(よしお/よしたか)』。

赤穂藩の筆頭家老を代々務める家に生まれ、本人も赤穂事件時は筆頭家老を務めていました。

尚、家系図では大石家と赤穂藩藩主の浅野家は親戚関係に当たります。

本書でも述べている通り、赤穂浪士 四十七士を率いて吉良邸へ討ち入りを行ったのですが、その最期は他の赤穂浪士と同様に幕府からの沙汰により『切腹』して果てています。

討ち入り後の処分

実はこの切腹、当時としては最大限の恩情・配慮だったようです。

というのも本来、こういった刀傷事件、しかも複数人(吉良邸の家臣含む)が出ている場合犯人は『斬首』となります。

討ち入り後に取り調べを行った幕府側は『武器を集め、徒党を組んで屋敷を襲撃した事は公儀(幕府)を恐れない、とても不届きな事』として『主君の仇討』とは認めませんでした。

ですが、市井では『赤穂浪士たちはようやく主君の仇を討った』といった意見が多かったようで、幕府内でも『法規的には許されざる行動だが気持ちは理解できる』といった同情もあったと思われます。

その為、幕府側は『切腹』を申し付け、武士としての最期を認めたのでしょう。

幕府内での同情に関しては、上野介の後、家督を継いだ『吉良左兵衛』の処分からも何となく読み取れます(左兵衛は討ち入り時も応戦し、生き残っています)。

左兵衛は赤穂浪士達の判決が下った頃に評定場に呼び出され、『2年前の上野介の行動(内匠頭に襲われた際に殿中ではあったが反撃せず逃げた)は武士としては適当な行動ではない』と申し付けられたそうです。

また、討ち入り時に左兵衛は応戦しましたが、上野介は隠れて最終的には討ち取られたことは『未熟』と判定されました。

これにより左兵衛は『親の恥辱』の為に信州の諏訪家へ『お預け(諏訪家内での軟禁、自由行動の制限)』となっています。

左兵衛からしてみればとばっちりもいい所ですが、最終的な結果・判定を見ると『2年前の内匠頭の事件での幕府の判決は覆り』、且つ『吉良家側と元赤穂側の両方に処罰が下った』と言えるでしょう。

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2. 武士階級(家老~足軽)

諸大名は藩を組織して各地域を治めていましたが、その藩内では階級が定められていました。

一番上は当然『藩主』ですが、その下には政治を執り行う『家老』であったり、軍事を統率する『番頭』といった上級藩士が居ます。

中級になると足軽を統率する『物頭』や、戦の際は馬に乗り戦える『馬廻』といった階級になります。

中級藩士までは藩から『知行(藩主から治めるべき土地を与えられ年貢を徴収する権利)』を持っており、知行持ちは上級藩士の家とも婚姻が結べたようです。

尚、江戸時代ではこういった知行は名目上だけになっている所もあり、年貢相当の米を藩から与えられることもあったそうです。

下級藩士は『足軽』などで、このくらいの階級では土地を持っていないので年貢の徴収ではなく藩からの禄(給料)を貰う事となります。

尚、大岡越前などで有名な『奉行』や、藩の監査役である『大目付』などは階級ではなく『役職』となります。

これら役職には中級階級の者が就くそうなので、下級階級ではなることが出来なかったようです。

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3. 神文返し

討ち入りの方針が決定し、各地に住んでいた元赤穂藩士達に連絡を取る際に預かっていた神文(起請文)の、それぞれの署名部分を切り取り、返した事。

討ち入りが決定した段階で情報漏洩を防ぐため、意志の固い者を選抜する為だったと言われています。

尚、神文返しの際は『大石内蔵助は討ち入りを一時棚に上げて延期するので、それぞれ身の振り方を考えた方が良い』といった様な事を伝え、それでも仇討ちに固執する者にのみ真意を伝えて江戸へ向かわせたそうです。

実際問題、元赤穂藩士が大挙して江戸へ向かった、となれば『絶対に何かやるだろう』と勘付くのは当たり前でしょうし、人が多くなればその分情報も漏れやすくなるので『ふるいにかける』という意味でも理にかなった行動だったと思われます。

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